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「障害受容」から、障がいとともに生きることの肯定へ
自らの経験から障がいとの向き合い方を研究

「障害受容」から、障がいとともに生きることの肯定へ 自らの経験から障がいとの向き合い方を研究

聖隷クリストファー大学 リハビリテーション学部 作業療法学科 教授
田島 明子 さん

障害者権利条約の発効、障害者差別解消法などが施行され、障がいを持つ人の人権尊重、社会参加を妨げるバリアをなくす取り組みが進んでいます。田島明子さんは、障がいを持つ人の生活や就労を支援する施設で作業療法士として働いていた時、自然に使われている「障害受容」という言葉に違和感をもち、「障害学」という当事者視点の学問と出会い、研究の道へと進みました。障がいを持つ人、家族、支援者などへのインタビュー調査を行う中で、だれもが自分の可能性を自分のしたいようにのびやかに発現できる関係や支援、社会のあり方を研究している田島さんにお話をお聞きしました。

研究テーマとされている「障害受容」について教えてください

障害受容とは、文字どおりに言えば、障がいを持つ人が自分の障がいを受容するということです。リハビリテーションの分野でみると1950年代にこの言葉が現れ、1980年にリハビリテーション医師、上田敏氏が定義づけたものがよく知られています。それは、「障害の受容とはあきらめでも居直りでもなく、障害に対する価値観の転換であり、障害をもつことが自己の全体としての人間的価値を低下させるものではないことの認識と体得を通じて(中略)、積極的な生活態度に転ずること」 ※1となっています。

私は今から20年以上前、作業療法士の養成校でこの言葉を習いました。養成校を卒業し、ある福祉施設で働きだした時、支援者の間で「〇〇さんは障害受容ができていない」という言葉が自然と使われていることに気づきました。その言葉は利用者本人に対しては使っておらず、会議や症例報告会などで支援者側だけで使用していました。その施設では障がいを持つ人の就労支援も行っており、一般就労にするか、授産施設や作業所にするかなども判断していました。ある時会議の中で「〇〇さんは障害受容ができておらず、一般就労にこだわっている」という発言があり、周囲も「それは困りましたね」と納得していました。「○○さんは、障がいがあるのに一般就労をしたいと思っており、あきらめが悪い」というニュアンスに聞こえた私は違和感を覚えました。つまり、障害受容という言葉を使って、自分たちの支援の限界を正当化しているように感じたのです。それが、私が障害受容という言葉の臨床現場での使われ方を研究するきっかけであり、考える際にベースとしている障害学という当事者学を知ることにもつながりました。

リハビリテーションが「障害受容」の使用で、機能回復という本人の希望を否定しているということでしょうか?

確かに、その通りではあります。しかしリハビリテーションの目標は、クライエントの生活の再構成にあります。ですので、正確に言うなら、機能回復の否定というよりも、生活の再構成のためのさまざまなことに視点を移し替えてほしい、ということだと思います。リハビリテーションにも人の身体にも限界があります。だれもがオリンピックには出場できませんし、だれもがいずれは死を迎えるわけで、リハビリテーションがどの人にも画一的に完全な機能を完備することには無理があるのは当然だと思います。しかし私が「障害受容」の上記に述べた使用で問題にしたいのは、もう少し視野を広げ、障がいを持つ本人や家族、支援者、社会の関係性についてです。

研究で何人かの作業療法士にインタビュー調査をしてわかったことですが、支援者側が障害受容(できていない)という言葉を用いる過程の中に、対象者が機能回復に固執するあまり、作業療法士にとってみると自分が立てたプラン(機能回復が限界に達した場合、それを補うための代償動作の訓練をしようといった)がうまく進行しないという「苦労感」がありました。有体に言ってしまうと、「障害受容」という言葉の登場は支援者側が困っているという信号なのです。

ほかにも障がい児教育の分野では、障がいを持つお子さんだけでなく、親御さんも障害受容という言葉の対象となっているようです。親御さんが障害受容できていないから、障がいを持つ子どもが適切なケアを受けられないというふうに話が展開しているようです。しかし親御さん側からすると、特別支援教育を選択してしまうことで、自分の子どもの未来にまで行く先のレールが敷かれてしまい、希望が感じられなくなってしまうことがあるようです ※2。親御さんがお子さんの障がいを受容できないのは、ある意味、当たり前ではないでしょうか。障害受容とは障がいを持つ当事者であれ親であれ、個人に迫るべきものではないと思うのです。障がいを持つ人の就労に関して私が問題視しているのは、能力主義的な社会のあり方の方です。能力の有無によって働ける、働けないが決められてしまうことです。働くことは人間にとって大事なことであり、自己実現や収入を得るなど、人生の彩りに大きな影響を及ぼします。障がいを持つ人が働きたいと思っても、支援者側から「障害受容ができていない」と言われるということは、働けないのはあなたの能力が無いからだ、それはあなたの側の原因であり責任であると言っていることと同じだと思います。ですが、働き方を障がいを持つ人の働ける力に合わせることも可能でしょう。そのように個人の多様性にアメーバのように適応してくれる社会であれば、疾病や障がいを持った人が、自身の機能回復に今ほどこだわりをもたなくてすむようにもなるかもしれないと思います。

ベースにある障害学という分野について教えてください

障害学は、障がいを持つ当事者の立場から、さまざまな問題提起をしていこうという学問です。「存在・障害の肯定」(否定性の否定)を重要視しています。それは、能力の価値と存在の価値を天秤にかけた時に、存在の価値に重点を置くものと私は捉えています。ただ、リハビリテーションとは能力にかかわる仕事であり、その人の能力向上を目指します。結果的に能力の価値を重視することになってしまうことは否めません。けれどもそれに共鳴しすぎると、リハビリテーションの限界が正当化され、能力の価値を重要視するあまり、生き方の多様性に偏狭な社会がつくられていくことに加担してしまう危険性があると思います。生きづらさの原因や責任を疾病や障がいを持つ個人にではなく、社会の側に探してみる視点が大事だと思います。障がいや疾病を持つ一般的に弱い立場にあると捉えられがちな人たちは、実は社会に気づきをもたらし、社会を変えていける主体であると捉えるのが障害学の基本的な考え方だと思っています。

障がいを持つ当事者自身が疾病や障がいを肯定する力や発信力を身につけ、多様性に適応する力をもった社会づくりを目指すということですね

その通りです。VHO-netの東海学習会に参加して、私がベースとしてきた障害学とVHO-netの理念には通じ合うものがあると思いました。疾病や障がいを持つ当事者が声を上げていくことの大切さを感じましたし、いろいろな疾病や障がい団体のリーダーが集まっていることにとても興味をもちました。疾病や障がいの違いを超えて共通項を見出し、社会に訴えかける力を備え、つながり合って、発信していく方向性に対してです。また、学習会の中でメンバー自身の疾病や障がいの体験を発表し合うプログラムも素晴らしいと思いました。個人の経験はとても大切で、その人だけにしか経験できなかったものです。その経験が他者に届けられることで化学反応が起き、ある重要な意味を担って個々の聴衆に伝わっていく。個人の中にある経験がこのように存在・障がいを肯定する力を備えて外に広がっていくことはとても大事だと感じました。

田島さん著書私が仕事としている作業療法も、一人ひとりの生活行為の豊かさを目指して対象者に働きかけることで、自由と平等の保障された公正な社会の実現に向けて役立とうとしています。ですから、疾病や障がいを持つ人の経験知はとても重要な情報源です。今後、疾病や障がいを持つ人がご自身の経験を他者の力になると確信をもって発信していただくことで、対人援助職のもつ悪しき権威主義(私がこれまで述べてきたような「障害受容」という言葉の使用はその一例になるでしょう)を低減し、当事者知に歩調を合わせた健全な専門性を育てることにも繋がると考えます。

田島 明子さん プロフィール
1993年都立医療技術短期大学作業療法学科卒。2003年東洋大学大学院社会学研究科福祉社会システム専攻修了、12年立命館大学大学院先端総合学術研究科一貫制博士課程修了(学術博士)。11年聖隷クリストファー大学准教授、17年より現職。

■著書
2009年『障害受容再考』(三輪書店)、14年『「存在を肯定する」作業療法へのまなざし』(編著・三輪書店)、15年『障害受容からの自由―あなたのあるがままに』(編著・シービーアール)

※1:総合リハビリテーション8 巻7 号 1980
※2:障害受容からの自由―あなたのあるがままに(シービーアール 2015年)