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難病を乗り越えていく

難病を乗り越えていく

難病を抱えて

図 魂のらせん階段 文献2)p.83より改変 図 魂のらせん階段 文献2)p.83より改変 わたしがVHO-netの会合に初めて参加したときに驚かされたのは、参加者の多くが難病を抱えているにもかかわらず、生き生きとして元気なことでした。「重い病気を抱えていながら元気な人がいる」、すなわち「元気の反対が病気ではない」ということを知ったことは大きな衝撃でした。それ以来、一体、元気なことって何だろうと考えてきました。現時点での私の理解は、元気の源は、その人が心の底からしたいと思っている活動をできていることなんだろうということです。そして、自分の抱えている病に、あるいは自分の生き方に、自分自身で意味を見つけだすことをできた人が元気に過ごされているように思われます。

危機に遭遇して登る7つのステップ

そんなことを考えていた頃、参加した研究会でドイツの心理学者エリカ・シューハルト教授の講演に出会いました。シューハルト教授は全世界の2000冊を超える闘病記などを分析し、重い病気や障害などの人生の危機に直面した人の心理状態について解説されたのです。危機に直面した後に、1不確かな状態、2確からしさの認識、3周囲への攻撃、4交渉・取引、5うつ状態、6受容(甘受)、7活動性、8連帯へと8段階を移行していくというのです(図参照)。エリザベス・キューブラー・ロス博士の有名な「死の受容までの5段階モデル」は、終末期の患者さんが対象のインタビュー調査から出たものであり、1否認、2怒り、3取引、4抑うつ、そして5受容となり死を迎えることになります。シューハルト教授は慢性病や難病の患者で闘病記を書かれた人を研究の対象としており、ロス博士の第1段階が二つに分かれていますが、第6段階の受容までは似ています。しかし、第6段階の受容を乗り越えて、第7段階の活動、そして第8段階の連帯へとつながるというところに新しい発見があります(1)(2)。
VHO-netなどで活動されている患者会の幹部の方たちは、受容を超えて活動から連帯の段階へと進まれた方たちなのだと考えます。

受容(甘受:Acceptance)とは

病気の受容に至るまでの経緯は個人の状況によりさまざまです。一般的には、より重い病気や障害を抱えたとき、受容に至るまでに、より長い時間を必要とすることになりますが、人によってはすっと短時間で受容に至るまでの経緯を過ごしていく人もいます。
シューハルト教授は、受容に至るまでは、過去に 視線が向かっており、「Why ?(なぜ)」という疑問から離れられないのだと述べています。しかし、その苦悩への意味づけができて受容に至ると、その人の視線は現在に、そして未来へと向かい、「How?(どう)」という疑問に移行していくというのです。
患者会の集まりなどで、シューハルト教授の提唱する「魂のらせん階段」を紹介すると、多くの患者さんから「わたしもそんな段階を経てきた」という感想をもらいます。しかし、一方で、「わたしは病気を受容なんかしていない」という感想もしばしば耳にします。たとえ、その方がすでに活動や連帯の段階に移っていてもです。
それは、その方が受容という言葉に、「もう病気から治ることを完全に諦めて希望を捨ててしまう」という意味を含んでいるように感じてしまっているからではないでしょうか。シューハルト教授の述べる受容は、この患者さんの受けとめる受容とはニュアンスがやや異なっているようです。現在の状況を受けとめ、そこから活動が始まっていれば、その状態はもうすでに受容なのです。それは、単なる、諦めや無気力になることではないのです。病気が将来治ることを望んでいてもよいのです。
因みに、参考文献の本では、この言葉が甘受と翻訳されています。甘受には、「納得はできていないけれど、不本意ながら受けいれる」という意味が含まれています。確かに受容より意味が近いのかもしれませんが、あまり日常用語にはなっていないように思います。何かもっと、ふさわしい日本の言葉があれば、この魂のらせん階段ももっと理解が進むのではないかと思います。

なぜ、人は意味づけを必要とするのか?

人間は、道具を創る動物です。そして、農耕を開始することにより繁栄してきました。道具を創ることには、その道具を使うことによって便利に生活するという意味があります。また、農耕で畑を耕し、種をまき、雑草をぬくことには、それらの労働や努力によって、秋になると作物を収穫できるという意味があります。このような文化の中で育った人間は、意味を求めることを宿命づけられているのです。
あるいは、オオカミに育てられたオオカミ人間なら、意味を求める必要もないのかもしれませんが、人間は活動することに意味を求めてしまいます。 そして、そのことは、特に危機に遭遇したときこそ、 意識させられるのです。そして、最大の関門は生きている意味ということになります。

人は意味づけをすることにより苦悩を乗り越えられる

ヴィクトール・E・フランクル氏はナチスの強制収容所での体験を「夜と霧」という本に著し、危機などに遭遇したときの苦悩を乗り越えるために、苦 悩の意味づけをすることが大切であることを次のように記述しています。
「生命そのものが一つの意味をもっているなら、苦悩もまた一つの意味をもっているに違いない」(3)。
危機に直面したとき「なんでわたしが?」という疑問をもってしまうのは人間だからこそなのです。そして、その苦悩に対する意味づけを自分自身の中でできたとき、その人は受容を乗り越えて、活動そして連帯へと移行できるのです。連帯へ移行できたときに、すでにその人は、その人にとっての生きる意味を自覚されているのかもしれません。

苦悩の意味づけのために

苦悩に意味づけをするためには、今までの価値観や人生観を書き換えることが必要となります。そして、その書き換えは一人では困難な作業でありますが、他人まかせにすることはできません 。苦悩の意味づけは、その人の中で行われなければ、その人として生きていくことができないからです。他の人に意味づけられてしまうと、困難に直面する度に頼っていくことになり、その人に依存する生き方になってしまいます。
人は遭遇するさまざまな状 況に適応しつつ生 きていくことになりますが、適応の仕方は人によって異なります。今までの困難な状況に対して、自分の感覚はどのようにとらえ、その状況に対してどのような感情がもちあがり、どのような思考をしてきたのか、自分が何を最も大切にしてきたのかを振り返ることが大切になります。そのことにより、その人に最もあう現在の状況への適応の仕方が見つけられていきます。

ピアサポーターができること

このような苦悩の意味づけを、一人きりで行うことは容易なことではありませんが、その過程を伴走してくれる人がいれば、より容易となります。そこで傾聴してもらうことが大切になってく るのです。
ピアサポーターは、苦悩の意味づけや価値観の再構築を傾聴することにより伴走をすることができます。それは、相手に解答を与える行為ではありません。
ピアサポーターが他の支援する人に比べて有利なのは、自分自身が同じような苦悩を抱えてきたためであり、より真摯に傾聴することができるからです。そして、わたしが乗り越えてきたと同じように、その人も苦悩を乗り越えられるだろうという自信や希望をもって聴くことができます。職業的な支援者の支えも必要でしょう。しかし、そのことはピアサポーターとしての特性を考えれば、その役割を減ずるものではないのです。

加藤 眞三 さん プロフィール
1980年慶應義塾大学医学部卒業。1985 年同大学大学院医学研究科修了、医学博士。1985~1988 年、米国ニューヨーク市立大学マウントサイナイ医学部研究員。その後、都立広尾病院内科医長、慶應義塾大学医学部内科専任講師(消化器内科)を経て、現在、慶應義塾大学看護医療学部教授(慢性期病態学、終末期病態学担当)。

■著 書
『患者の力 患者学で見つけた医療の新しい姿』(春秋社 2014 年)
『患者の生き方 よりよい医療と人生の「患者学」のすすめ』(春秋社 2004年)

参考文献
(1)エリカ・シューハルト著/戸川英夫監/山城順訳 「なぜわたしが?:危機を生きる」長崎ウエスレヤン大学 2011年
(2)エリカ・シューハルト著 / 樋口隆一・山本潤・伊藤綾訳 「このくちづけを世界のすべてに-ベートーヴェンの危機からの創造的飛躍」アカデミア・ミュージック 2013年
(3)ヴィクトール・E・フランクル著/ 霜山徳爾訳 「夜と霧」みすず書房1985年(初版1956年)